ボランティアなんて偽善だ

派遣中

かった苦しいタイトル&本文も真面目ですが、最近週一ぐらいでラーメンの夢を見ます。しかもパターンが決まってる。大抵、日本の繁華街にいて「今一時的に日本や!せっかくやから~行かな!」→店に辿り着く前に「あれ?今ホンマはどこにおるんやっけ・・?マラウイや!無理やん!」ってなり、ちゃんとありつけたことはないです(泣)


ちなみにトップ画像。「左上・希望軒」「右上・来来亭」「左下・天下一品」「右下・もっこす」帰国したら即効で会いに行きたい方々です。協力隊員というか、海外で過ごす人にとってはあるあるなようですが、日本食に渇望しています。


しかも隣国のザンビアやタンザニアには、お寿司などの日本食が食べられるレストランがあるそうですが、マラウイない!頑張って出前一丁のインスタントぐらいです。

善と偽善・利己と利他

ラーメン全然関係ありません。マラウイでの生活があと1カ月でもう1年。いろいろなことを考えたりするなかで、協力隊前から考えていたことで、こっち来てもあんまり考え変わっていない、たまに聞く「ボランティアなんて偽善だ」に対してつらつら書きます。あわせて利他・利己ってことに対しても。結論としては


無意識下での「自己」の範囲が人によって違うので、偽善だ利己だ考えてもしょうがない


なんか身も蓋もない結論ですが、こういった考えは生物専攻ならではなのかなーと感じること多く、なんかの気づきになれば幸いです。以下詳細


普段Aさんがいて、大抵の場合AさんはAという存在を「自分」と捉え、Bさんのことは「他人」と考えます。なんか当たり前。ただ、Aさんの右手にある細胞と、Aさんの左足にある細胞は、物理的に離れているけれど、Aという存在を維持するために気づかないうちに協働しています。もっと言うと、遺伝子を残すために協働しています。


他のもっと素晴らしい可能性も考え続けるべきかもしれませんが、命を捨ててでも、何かを助ける的なことも基本これで説明出来ます。つまり、AさんがBさんを助ける行為は、無意識下でAさんはAさん=Bさんと捉えていて、大きな全体のために動く的な。というか、どちらかと言うと似ている遺伝子をもっている存在のために突き動かされる。


お察しの方もいるかと思いますが、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」にもろに影響を受けています。極端な言い方、結局みんな遺伝子の乗り物!似た遺伝子が残せるなら、個体にそこまで重きおかなくても!的な考え。


そもそもある特定の哺乳類ぐらいしか、鏡を見せてもそれが自分だと気づかない、つまり自分を客観視することができる生物ってすごく少ない。何が言いたいかと言うと、人類以外はそんなに「個体」を意識していない。物理的に離れているけれど、ほとんど一緒の遺伝子を残すために、あたかも見えない力に統一されて、アリとかもみんなせっせと各々の役割を果たします。


人の場合、「自己」の範囲やその強さが無意識でばらばら、多様。なので、自分だけ大好きな人、身近にいる人に献身的な人、日本に生まれたけどアフリカで何かしようとする人、他生物を大切にしようとする人、環境を大切にしようとする人みんなばらばら。


何が一番ってのはなくて、むしろばらばらであることが人類の強みかと。チームラボ 猪子寿之。アートは生存戦略。人間は遺伝子レベルで最も遠い花を愛でたことで滅ばなかった。 でも述べられていることにも通じるかと。


なので、利己的だ利他的だといった話も個人的に意味がないと考えています。人によって「己」の範囲が違うから。究極的に言えば利己的なのは「遺伝子」だけで、それ以外は遺伝子の操り人形という酷な見方も出来てしまいます。


Every generation expands the circle of people we consider “one of us.” For us, it now encompasses the entire world.

ザッカーバーグのハーバード卒業スピーチより


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